日本で行われている漢方薬を用いた治療のことです。先にも触れましたが、『本草網目』と『傷寒雑病論』という書物が完成した年代、つまり中国で理 論がまとまったのが後漢の時代であるために、日本では中国医学のことを漢方医学と呼ぶようになったといわれています。
日本の漢方医学は6世紀に仏教とともに伝えらました。 平安時代に丹波康頼によって『医心方』が記され、体系化されました。その後は徐々に広まっていきますが、それと並行して、中国から次々に新しい理論や薬剤が伝えられました。安土桃山時代に、曲直部道三が『啓迪集』を記し、明の時代までの中国医学を体系化し直しました。この時代までは日本の医学は中国の医学を半歩遅れで追いかけるという形だったといえます。
しかし、前節でも書きましたように、江戸時代になって鎖国体制が確立されてから独自の展開をみせます。まず、吉益東洞らが古方派と称して『傷寒雑病論』に返れという考えを展開します。この結果、日本の医学者たちは『傷寒雑病論』を徹底的に研究、解析することになります。 やがて、『傷寒雑病論』の限界を悟った学者の中から折衷派が登場します。彼らのうち、足りない部分をオランダ医学に求めた人たちを特に漢蘭折衷派と呼びます。このなかで最もわたしたちになじみの深い学者は華岡青洲でしょう。
また、この漢蘭折衷派の考え方が広がっていたために、明治時代に西洋医学が日本にすみやかに導入、普及したことも重要です。 明治時代に西洋医学が導入され、政府の文明開化政策の影響で、漢方医学は著しく衰退しました。しかしながら、幕末から明治初期にかけて活躍した折衷派の浅田宗伯らの尽力により、今日の『漢方医学』として確立され、大衆の支持のもとに民間医療として生き残りました。
昭和に入ると、大塚敬節先生らの努力により漢方医学は徐々に復権してゆきます。 戦後、1950年に日本東洋医学学会が設立されました。1957年には小太郎製薬から、現在の主流である漢方エキス剤が発売されました。 その後、ツムラやカネボウなどからも漢方エキス剤が発売され、漢方薬に対する一般認識がさらに高まりました。そして世論に後押しされる形で、1976年秋に健康保険薬の認可を受けました。ここに国民皆保険制度のもとで高品質の漢方薬を低コストで処方出来る、現在の医療体制が完成したのです。
はじめにの中でも述べましたが、 この日本という国以外に、世界のどこを探しても、これほど高品質の漢方薬を低コストで患者さんに処方出来る国はないのです。
わたしはこの事実を、わたしたちはもっと誇ってもよいのではないかと思います。そして明治以降の部分を読み返していただければわかりますが、このシステムが完成した背景には、漢方医や製薬メーカーの努力とともに大衆の支持(世論)というものの力が大きく関与しているのです。 先人たちの努力や苦労に報いるためにも、現在のシステムを有効に活用することがわたしたちに課せられた使命だとも、思っています。
以上、駆け足ではありますが、日本の漢方医学の大まかな歴史を説明しました
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